伊丹万作

☆ 監督の仕事☆

一つのシーンの存在理由、一つのセリフの存在理由、それらはいつも厳重な検討に耐え得るだけの強さを持っていなくてはならない。 説明にも描写にも、興行価値にも役立たないようなシーンは捨ててしまい適当なセリフを発見するまでは、何百回でも自分で言ってみることだ。 それより他に方法はない。

演技の中から一切の偶然を排除せよ、複数でも通例=時間以内に圧縮整理されてしまう運命をもっている。

たえず美の法則に従って映画の流れを整え、時間を極度に切りつめて最も有効に使わなければならぬ映画作者がどこに無意味な偶然を許容する余裕を持ち得るだろう。

演出者以外の者が、演技指導に関係のあることを直接俳優に言ってはならない。 例えば録音部が直接俳優に向かってセリフの調子の大小を注文したり、キャメラマンが直接俳優に向かってアクションの修正を要求したりしてはならぬ。 それらは必ず一度演出者を通じて行われねばならぬ。

非常に低度の演技、つまり群衆の動きや背景的演技などを対象とする場合は必ずしも前記の原則によらない。(ただし、群衆撮影の場合あまりキャメラマン任せにすると、キャメラマンの多くは群衆を一人残らず画面内に収めようとしすぎるため、画面外には人間が一人もいないことがわかるような撮り方をする傾向があるから注意を要する)

テストの回数はしばしば問題となるが、私の考えでは一般的な法則としてはそれは多ければ多いほど良い。テストが多すぎるとかえって演出の質が落ちると主張する俳優は自ら自己の演技が偶然に依存している事実を告白しているようなものだ!

演出者が意識して演技の中に偶然を利用しようとする場合は無反省にテストを繰り返してはいけない。 例えば、非常にアクロバティックな演技や、子役を使う場合などにはある程度以上のテストは概して無効である。

経験の浅い女優などに激情的な演技を課するような場合は、偶然的分子が結果を支配する率が多いからテストの回数を重ねることは危険である。 なお、一般に激情的なカットを撮る場合に考慮すべきことは人間の感情には、麻痺性があるという心理的事実である。

通例、いわゆる甲羅を経た俳優ほど感情を動かすことなくして激情を表現し得るものであるが、多くの俳優は、演技の必要に応じて、ある程度まで自分の感情を本当に動かしかかっているのである。 従って、前者の演技は持続的な麻痺の上に立っているがゆえにもはや麻痺の心配はないが、後者は麻痺によって感激が失せると演技が著しく生彩をかいてしまう。 ことに演技中に涙を要求する場合などは、いかなる俳優といえども麻痺性の支配を受けないものはないのであるから、テストは最小限にとどめ、出来得るならばまったくテストを省略するように工夫すべきである。

演出者は演技指導中は出来るだけ俳優の神経を傷つけないように努めなければならない。 その為には文字どうりはれものに触るような繊細な心遣いを要する。

なかんずく、俳優が自身を喪失する誘因になるような言動は絶対に慎まなければならない。 演技指導とは俳優を侮辱することだと思っているらしい演出者がいるのは驚くべきことである。

俳優が優れた演技をした場合はなんらかの形で必ず賞賛すべきである。

俳優がせりふを暗記しようとしている時は話しかけてはいけない。

重要な、あるいは困難な演技をシュートするときは必要以外の人間を仕事場に入れてはいけない。

俳優は実生活では軽い化粧カバンでさえ嫌がって、マネージャーに持たせるくせに演技中には絶えず何かを持ちたがる。しかし、彼等の望みに任せて物を持たせてはいけない。 なぜなら、芝居が下品になるからである。

俳優は常に手を懐かポケットの中へ隠したがる。 ある俳優の時は、娘の結婚式の来客を迎える紳士の役を、両手をズボンのかくしへ突っ込んだままで押し通したのを私は見て人事ながら冷や汗を流した。

彼等の手をかくしから引っ張り出せ! そうしないと折り目正しい演技はなくなって、全てが猿芝居になってしまう。

俳優の喋るセリフが不自然に聞こえる時、そしてその原因がはっきりつかめない時は、ためしにもっと声の調子を下げさせるとよい。 それでもまだ不自然な場合はさらにもっと調子を下げさせる。こうすれば大概それで自然になるものである。一般にこうして得たセリフの調子がその人の持ち前の会話の声の高さであり、セリフが不自然に聞こえる場合のほとんど 90%までは持ち前の声より調子を張っている為だと言っていい。 したがって、録音部の注文で無反省に俳優に声を張らせるくらい無謀な破壊はない。 我々はいかなる場合にも機械が人間に奉仕すべきで、人間が機械に服従する理由のないことを信じていて間違いない。

声を張ることを離れてはほとんど表現ということの考えられない舞台芸術の場合には前項の記述はまったく役に立たない。 例えどんなにリアルな舞台でももしも我々が映画に対すると全く同一の態度でこれを見るならばそこには自然なエロキューションなどは一つもないのに驚くだろう。

しぐさに関する演技指導の中で、視線の指導くらい重要でかつ効果的なことはあまりない。 その証拠に俳優が役の気持ちに同化した場合には別に注文しなくても視線のいき場所や、その移行する過程がぴったりとつぼにはまっていく。

ちょうどその裏の場合たとえ、俳優自身はその役のその時の気持ちを理解していなくても視線の指導さえ正確綿密に行われるならば、その結果はあたかも完全なる理解の上に立った演技のごとく見えてくる。 気持ちの説明が困難な場合(例えば子役を使う場合など)もしくは、説明が複雑でむしろ省略するほうが好ましいような場合には私は俳優の私に対する信頼に甘えて、理由も何も言わず、ただ機械的に視線の方向と距離とその移行擦る順序を厳密に指定することがしばしばであった。

その結果彼等の演技は正しく各自の考えでそうしているのであった。

演技にある程度以上動きのある場合には、演出者は必ず一度俳優の位置に自分の身を置いて動いて見るが良い。それは、人に見せる為ではない。 その主なる目的は俳優に無理な注文を押し付けることを避けるためである。

演技のような微妙な仕事を指導するためには、終始己を客観的な位置にばかり据えていたのではいかに熱心に監視していても、どこかに見落としや俳優に対する理解の行き届かない点が残ってくるものである。 しかもこれは自分で動いてみれる以外には避けようのないことであると同時に動いてさえみれば簡単に避けられる事である。 要するに我々は原則として自分に出来ない動きを人に強要しないことである。 自分には簡単に出来ると思っていたことが動いてみると案外やれないことは珍しくない。(この場合の動きの難易は技術的な意味よりもむしろ生理的な意味を持っている)自分で動いてみて初めて自分の注文の無理を悟った経験が何回とある。

俳優の動きにぎこちない感じがつきまとい、なんとなく見た目に形が良くないような時は、俳優自身が必ずどこかで肉体的に無理な動きや不自然な重心の据え方していながら、しかも自信でそれを発見し修正する能力を欠いている場合に限るようであるが、この場合も演出者が客観的にいくら観察していても具体的な原因を突き止めることはかなり困難である。

しかし、一度俳優の位置に身を置いて自分で働いてみると実にあっけないほど簡単にその原因がわかる。

『信頼』の上に立たない演技指導は無効である。

出演している俳優の服装を気にする事も必要だ! その服装だけで、映画の中の人物の性格、職業を観客に伝えるためである。 映画監督は演技者ではなく性格自体を探さなければならない。その場合、選択された形象はあまりにも簡単明瞭な類型(タイプ)ではダメ。

言葉は表情のようにものすごく露骨に人間を剥き出しにはしない。 本当に芸術的な映画においては、二人の人間の間の劇的な勝負はつねに、このような表情による対話のクローズアップによって描かれる。